失われたコインの物語

 退蔵コイン

 古代貨幣学における退蔵コインとは、いったん製造はされたものの、何らかの理由で世の中に流通しなかったコインのことを言います。

 わが国では戦中に発行された1銭陶貨などがそれに当たりますが、有名なのは紀元前4世紀にギリシャ領メタポントゥム(イタリア半島のブーツの底あたり)で発見された、わずか893枚のアテネ/フクロウ銅貨でしょう。この銅貨はこれまでに一つの甕の中からみつかった一塊だけなので、さまざまな論議を呼んでいます。銀貨を製造する前の試作品だとか、戦火をまぬがれて残った埋蔵金だとか。ともあれこのコインはメタポントゥムで製造された正式な流通貨幣とは区別されて、歴史的な価値もあいまいなまま、錆止めを塗られ、ナンバーを付けられて、収集家のあいだでだけ取り引きされています。

 さて、軍人皇帝時代のトレヴェリアヌス帝は、4世紀後半に書かれたエウトロピウス他著『ヒストリア・アウグスタ』にのみその名が確認される、僭称皇帝の一人です。皇帝としての名乗りを上げてすぐ、彼はじぶんの肖像を刻印した貨幣を作るよう命じた、と記録にはありますが、その貨幣はこれまでのところ、どこからも発見されていません。また、流通した形跡もありません。近年、ローマ領だったイギリスで、時の皇帝カラウシウス帝の未発見の肖像コインが発掘されて話題になりましたが、このトレヴェリアヌス帝のコインも、発見されたあかつきには、退蔵コインとして以上に、その皇帝の存在を証明する歴史的な発見として、大きな話題を呼ぶことでしょう。

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